Keisuke's English Blog

英語や言語についてのブログです。
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意識的な努力と客観的な結果
例えば、美男子のピータが演説をしていて、人々の注意を部屋の隅にある赤いイスに向けたいと考えたとします。

とてもハンサムで美男子のピータが人々の注意を部屋の隅にある赤いイスに向けたいわけです。

ですが、この時、ピータは、直接的に「皆さん、部屋の隅にある赤いイスに注意を向けて下さい」という風に伝えるのが良いのでしょうか?

もし、ピータがそのような直接的な指示を人々に与えるのだとしたら、それはピータが二流の演説家だからではないか、という風に考えたくなります。



まず、「赤いイスに注意して下さい」という風に言うよりも「赤いイスを見て下さい」という風に言った方が、人々の注意を赤いイスに向けさせる手段として優れています。

注意というのは、意識の領域のものであるため、それだけ制御に繊細さが付きまとうものです。

一方で、視線というのは、肉体の領域のものであるため、それだけ容易に制御できるものです。

人々の注意力を制御したいのなら、より繊細な実体しか持たない意識の動きに働きかけて直接的に制御するよりも、より粗雑な実体を持つ眼球の動きに働きかけて間接的に制御した方が、確実であり優れているのです。

人々の注意を向けさせるのに、わざわぜ「注意を向けて下さい」という風に言う必要はないのです。

「視線を向けて下さい」という風に言いさえすれば、その視線を向けるという行為の付随的な結果として、自然と注意を向けさせることができるのです。

そして、より確実に影響を与えられる肉体的な指示を与えた方が、より確実に注意を向けさせることができるというわけです。

ここでの要点は、もし人に何かの指示を与えるのだとしたら、抽象的で観念的で精神的な指示よりも具体的で物質的で肉体的な指示を与えた方が上手く機能するものだということです。



また、次に考えたいことは、そもそも、注意を向けさせるために「視線を向けて下さい」という風に言う必要すらないということです。

ただ「部屋の隅に赤いイスがあります」と言いさえすれば、人々の注意は自然と部屋の隅にある赤いイスに向くものなのです。          



「注意を向けて下さい」という指示には、潜在的な問題が存在しています。

人は、「赤いイスに注意して下さい」と言われると、得てして、赤いイスに注意を向けようとすることに注意を向けてしまって、赤いイス自体に注意が向かなくなってしまうものなのです。

軽く注意を向けるという程度の指示であれば、まださほどの問題は起きないかもしれませんが、これがより高度で繊細な精神の機能である集中という段階にまで進んだ指示であれば、おそらく、ほぼ間違いなく問題が起きることになると思います。

人に対して「赤いイスに集中して下さい」と指示する演説家は、二流どころか三流であると言わなければならなくなるでしょう。



人は、「赤いイスに集中して下さい」と言われると、赤いイスに集中しようとすることに集中してしまって、赤いイス自体に集中できなくなってしまうものなのです。

本当に赤いイスという対象に人々の意識を固定して集中させたいのなら、赤いイスを細部に渡るまで精密に描写することです。

人は、赤いイスが精密に描写されているのを聞くと、自然とそれらの描写を観察しようとするため、その結果として、赤いイスという対象自体に意識が固定され、赤いイス自体に集中できるのです。

そして、意識が赤いイス自体に固定されているため、赤いイスに集中しようとすることに集中してしまうことを回避することができるのです。



人々を本当に集中させようと思ったら、人々に「集中しよう」と思わせてはいけないのです。

なぜなら、集中しようという意志が起こるということは、その瞬間において集中していないことの逆説的な証拠だからです。

集中しようと思っている人というのは、集中しようとしていることに集中してしまっているのであり、実際には集中できていないのです。

人々を本気で何かの対象に集中させようと思ったら、人々が気付かない内に意識を対象へと固定し、人々が気付かない内に自然と集中している状態へと導いてしまうべきなのです。

そして、そのようなことを優雅に達成する人物というのが優れた演説家であり指導者であるというものなのです。



時には、注意して下さいという指示を出せば、指示を受けた人が素直に積極的に協力してくれる場合もあることでしょう。

ですが、時には、注意して下さいという指示を出しても、指示を受けた人の自我が反発して素直に協力してくれないことがあったりすることも考えられます。

例えば、指示を受けた人が何でそんなことに従わなければならないのだろうなどと考えている場合です。

そのような人に「指示に従って下さい」と繰り返し伝えることは、逆効果にもなり得ます。

何かを拒絶している相手に無理に働きかけることは、得てして、その拒絶を強めてしまうことになるのです。

指示を聞きたくない人に「指示を聞いて下さい」と繰り返し言うことは、プラスに働くどころか、「指示を聞きたくない」という負の抵抗感情を強めてしまう可能性があるのです。



あることを意識的に達成しようとして直線的に意識的な努力を行ったからといって、その達成しようとして行われた意識的な努力が素直に客観的な結果に繋がるとは限らないのです。

人々を注意している状態へ導くという客観的な結果を求めているからといって、素直に「注意して下さい」という風に伝えるという素直な意識的な努力を行えば良いというものではないのです。



例えば、「明日の夜8時にはテレビの4チャンネルを絶対に見ないで下さいね」という言葉を誰かに意味深に伝えることによって、その人に「明日の夜8時にテレビの4チャンネルを見たい」と思わせることができたりします。

また、「明日の正午に楽しいことがあるのでここに来て下さい」と言わなくても「明日の正午にここで楽しいことがあります」と伝えるだけで、相手に「明日の正午にここに来たい」という思いを抱かせたりすることができたりするのです。



そこで、やはり、部屋の隅にある赤いイスに注意を向けさせたいのなら、「部屋の隅にある赤いイスに視線を向けて下さい」と言うよりも、ただ「部屋の隅に赤いイスがあります」とだけ言った方が優れた言葉の使い方である、という風に考えるわけです。

「注意を向けて下さい」という指示の場合も、「視線を向けて下さい」という指示の場合も、所詮は他発的な指示に従わせて注意や視線を向けさせようとしているだけです。

ですが、「そこにあります」という指示の場合では、指示を受ける人の自発的な意志を誘発して自然と対象に意識を向けさせることになるのです。

そして、自発的で自然であるがゆえに、相手の心理に変な抵抗や反発が起きずに、なめらかに意図した結果を引き起こすことが出来るのです。

人の意識や視線は、「そこにあります」という風に言われた直後には赤いイスに向いているものなのです。

単に相手を自分の指示に従わさせるだけではなく、相手の自由意志を誘発して自分が密かに保持している真の目的を達成するなどということは、なんと魔法のように美しくエレガントなことでしょう!!



人々に何かを注意させたければ、「注意しよう」と思わせるのではなく、自然と「注意している」状態へと至らせるべきなのです。

では、人々や自分自身に何かを記憶させたい場合は、どうでしょうか?



本当に人々や自分自身に何かを記憶させたいと思うなら、記憶しようとさせない方が良いのです。

記憶するということは、物理的な実体をあまり伴わない非常に繊細な精神レベルの現象です。

そして、記憶というのは、明確に測定することが困難で、記憶できているのか記憶できていないのか、ということもかなり曖昧にしか捉えられないことが多いのです。

そして、そのようなこともあり、何かを記憶しようとしていて、記憶の到達度を進歩の尺度として使用しようとすると、得てして、憂鬱という名の罠にはまってしまうことになるのです。

進歩を測定する基準として記憶を使用すると、記憶という現象の捉えづらさから、自分が今いる場所が見えずに、いつまで経っても進歩していないように感じたりしやすいのです。



記憶しようと一生懸命頑張ったのにも関わらず、何かのテストなどで明確な結果が出ないと、その努力が無駄になってしまったように感じたりすることがあります。

「頑張って記憶しようとしたのに記憶できていない」という風に嘆くことになるわけです。

ですが、記憶というのは、記憶できているか記憶できていないかというような単純なデジタルなものではありません。

全く記憶していない状態から、徐々に記憶しているような感覚が増えていき、途中で、何となく覚えているような気もするけどはっきりとは思い出せない、という段階を踏んだりするものなのです。

そして、そのように徐々に完全に記憶している状態に近づいていき、ある一定のレベルまで記憶が強化されて一線を越えた時に、記憶しているという状態を明確に認識することになるのです。

テストなどで明確に結果が出なかったとしても、きちんと記憶するための努力を行っていたのなら、その間に行っていた努力によって生まれた労働の成果は、たとえ目に見えないレベルであれ、きちんと蓄積されているものなのです。

ちょうどコップに水がたまっていった後の最後の一滴でコップから水が溢れるように、目に見えないレベルでの労働の蓄積が積み重なっていった後の最後の瞬間において記憶しているという状態が明確に認識されるものなのです。



記憶できているのか記憶できていないのかということを必要以上に気にすることは、大して有益性を持たない活動です。

記憶できているのかどうかをいくら気にしても、どのぐらいの見えないレベルでの記憶の蓄積が起こっているのか、ということを明確に測定することは難しいからです。



記憶している状態という客観的な結果が欲しければ、「記憶しよう」という意識的な努力を行わずに、「繰り返そう」という意識的な努力を行うことです。

記憶という現象は、反復という現象と密接に結びついているのであり、何度も反復されたものというのは、自然と記憶されるものなのです。

記憶している状態に至ることを最終的な目標としておいているからといって、常に「記憶しよう」という風に念じていなければならないというものではないのです。

布を縫うことが最終的な目標であったとしても、実際に布を縫う時には、「指をああ動かしてからこう動かして縫うんだ」という風に指先の運動に集中していなければならなかったりするものです。

それと同じように、たとえ何かを記憶したいと思っていて、記憶することを最終的な目標においていたとしても、単に記憶したいと念じれば良く記憶できるというものではないのです。

それよりも、何かを記憶したいのなら、記憶という現象を引き起こすための具体的な活動に集中して「繰り返そう」とした方が良いのです。

もちろん、記憶する対象への心理的な関心というのは、記憶の定着率にも関係してきますが、何の訓練も受けていない人が「記憶しよう」と念じたからといって、対象への関心や集中力が即座に大幅に強化されたりするわけではないのです。



記憶しようと念じる必要はないのです。

ただ繰り返しさえすれば良いのです。

ただ「繰り返そう」という意志を持って繰り返しさえすれば、自然と記憶という現象を引き起こし、当初の目標であった記憶している状態へと到達することができるのです。

繰り返すということを目先の目標として定め、その目の前にある目標にだけ集中して適切な遂行を行っていればそれで良いのです。

そのような具体的な任務の遂行に集中して結果を気にしない方が安心して進歩していけるものなのです。

自分が制御できるのは自分自身の行動であって、その行動が周囲の不確定要素と関連して引き起こす結果ではないのです。

制御しない結果を気にするのではなく、制御できる行動を制御することに注力し、自分ができることを自分ができるだけやっていくというのが道というものなのです。



また、それゆえに、「繰り返そう」という意志を持ち、繰り返すことを進歩の尺度として使用する者は、無用な憂鬱から解放されます。

繰り返すことを当面の目標としておいていれば、ある時点において記憶できていようが記憶できていまいが、繰り返すという目標は達成しているのです。

そして、繰り返すという仕事をきちんとこなしているという達成感と満足感があるため、無用な憂鬱に悩まされることなく、努力を平然と続けていくことができるのです。

一方で、明確に記憶するということを目標にした時、ある時点で明確に記憶できていなければ、成果はゼロであり、全く成果が上がっていないという風に感じたりするのです。

記憶すること自体が最終の目的でもあり当面の目標でもあるわけですから、記憶できていない状態は努力の失敗であり、一向に目標に近づいていないような感じがしたりするわけです。

そして、こんなにも記憶できない自分は生まれつき頭が悪いのではないだろうか、とか、こんなにも記憶できない自分はもう年を取ってしまったのだろうか、とかいうような大して根拠のない結論へと至ってしまったりすることもあったりするのです。

ですが、実際には、記憶しようと努力している時のある一定期間において目に見える明確な成果が上がらないことは、いたって自然なことであり、何ら悲観すべきことではないのです。



適切に記憶しているという客観的な状態を達成したいのなら、記憶している状態に自然と至るその時まで反復を繰り返すことです。

反復さえしておけば、その内、自然と記憶している状態へと至るものなのです。

また、反復しているのに記憶していない状態にとどまることは、逆に不可能ですらあるのです。

記憶できているかどうかを必要以上に気にする必要はありません。

なぜなら、反復していれば、記憶できていようが記憶できていまいが、反復するという仕事はきちんとこなしているのであり、当面の目標は達成しているからです。

多くの人は、働いても給料をくれるとは限らない会社よりも、働けば必ず給料をくれる会社で働きたいことでしょう。

何かを達成するためにやる気を保つことが必要ならば、しかるべく、やる気が保てるような状態を作り出すと良いのです。

何も、苦しむことが努力でもなければ、自分を責めることが目的なのでもありません。

やる気を保つために労働に付随する達成感が必要なのなら、それを存分に感じれば良いのです。



「反復しよう」とすることは、「記憶しよう」とすることに比べて、まず、それがより具体的な活動を目的としている点で優れており、また、具体的な活動に集中することによって、理想の状態に到達できていない時の心理的な欲求不満を作り出さないという点で優れています。



そして、また、優れた教師というのは、生徒に対して何かを記憶するようには指示しないものです。

なぜなら、何かを記憶するように指示したとしても、生徒が急に記憶できるようになったりするわけではない、ということを知っているからです。

また、記憶という現象において、そのように目に見える成果が上がらないように一見して見えることが、生徒に欲求不満を与えて生徒を憂鬱にし、生徒の勉強に対する意欲を失わせてしまいやすくもある、ということも知っているのです。



時として、テストというものは、記憶できているかどうかをチェックできる便利な道具です。

ですが、それは、記憶できているかどうかをチェックするという当初の目的を簡素に達成するからこそ便利なのです。

テストで悪い点を取った生徒を非難したり、記憶することに対する必要以上の重圧を与えてテスト直前の生徒を追い込んだりすることに、大した有益性を見いだすことは出来ません。

教師たる者は、生徒の意欲を刺激して推進し、優しく成功へと至る道を示すものです。

ですが、実際は、反対に、生徒に心理的な負担を強いて不必要な重圧や苦痛を与え、その結果として、勉強することや記憶することに対しての嫌悪やアレルギーの感情を生み出している教師が多すぎるのではないでしょうか?

テストという生徒の進歩の度合いを測定する便利な道具であるはずのものが、出来の悪い生徒を非難し拷問する道具へと化してしまっているのです。



ある生徒はより多くのものを記憶していますし、ある生徒はより少ないものを記憶しています。

ですが、だからと言って、より少ないものしか記憶していない者を非難したりする必要性はどこにもないのです。

もし記憶できていない生徒がいるのなら、ただその事実に対する自覚を促せばいいのです。

何もテストで悪い点を取ること自体が悪いことなのではありません。

テストで悪い点を取るということは、そのテストが扱った話題に対する知識の記憶が欠乏していることを自覚する上で有益であり、現状を適切に自覚することは、未来へと繋がる行動を決定する上で有益です。

ですが、進歩の状況を的確に測定し、現状に対する情報を得て、それらの情報を未来のより一層の発展へと繋げていくために利用されるべきであったテストも、いつの間にか、生徒間に存在している進歩の優劣をカタログ化し、それを生徒の人格や生来の能力と結び付けて生徒の自尊心を傷つけ、そして、生徒の理想への意欲を失わせたりする、というような破壊兵器へと歪められてしまっていたり、あるいは、いつの間にか、生徒の能力の有無を現実的な合理性から解離して機械的に判断し、単にテストを通過したというブランドとしての証明書を発行する偶像へと成り下がってしまったりしています。



より高い所にいる人とより低い所にいる人が存在していることは自然なことであり、それ自体に悪い事が存在しているわけではありません。

ですが、いつの間にか、世界は、高い所にいる者が低い所にいる者を手玉に取って脅迫し、自信を失わせて弱い状態へとはめ込み、そして、その後に、ニヤニヤしながら愛撫することによって、さも善行を為しているかのように錯覚しながら満足する場所へと甘んじるようになってしまっています。

弱者を弱者として優しく保護して愛撫することに博愛性が存在しているわけではないのです。

そうではなく、弱者を強者ヘと変化させることこそ真に偉大であり、そこにこそ教育が目指している真の理想が存在しているのです。

もし、同じ人として無用な苦しみの無益さを理解するのなら、より高い所にいる者はより低い所にいる者を導いて高みへと引き上げるものであって、低い所に住まわせたまま優しく何かをしてあげることが偉大なことなのではないのです。



周りの人は、自己の優越感や過去の習慣から本当の急所を見失っているかもしれません。

ですが、周りがどう言おうが、過去がどう示唆しようが、もし自分自身に意志があるのなら、それを達成できるということを知って実行することです。

「周りがああ言うから、自分はそうしなければならない」という風に考える必要もなければ、「今までそうしてきたのだから、これからもそうし続けなければならない」という風に考える必要もないのです。

何も自分で挑戦せずに、ただ周りの意見や過去の経験から自分自身の可能性を否定してしまうなんて、それほど悲しいことがあるでしょうか?

もし、人間が自分の周りや過去に対するイメージを生き続けるのだとしたら、世界は永遠に変化することなく、同じ現象を繰り返し続けなくてはならなくなります。

ですが、そんな奇妙でおかしなことは、世の道理が許さないというものです。

自分自身に潜在している可能性を信じて生きることができるのなら、周りの人や過去の残像がどれだけ否定しようが、自らの意志と勇気によって変化に富んだ未来を切り開いていくことができるのです。



記憶することを恐れることなく、正面から見つめることです。

そして、繰り返して、繰り返して、繰り返すのです!!

記憶できることもあれば記憶できないこともあるでしょう。

ですが、結果がどうであろうが、気にせずに、繰り返して、繰り返して、繰り返せば良いのです!!

記憶できている状態に至るまで繰り返し続けたなら、一体どうやって記憶できていない状態にとどまることが出来るのでしょう?

世の中を観察すると、ほぼ普遍的に、何かを記憶することに対する恐怖や苦手意識が存在しているように見受けられます。

それだけ何かを記憶するというとことが必要とされる場面が多く、そして、その度に記憶できないというジレンマに悩まされて、次第に記憶することを嫌悪するようになっていったのでしょう。

ですが、記憶することを恐れる必要はないのです!!

ただ、繰り返して、繰り返して、繰り返せば良いのです!!

やがて、その時は静かに訪れ、辺り一面を達成感で満たすでしょう!!
| - | 02:22 | comments(0) | trackbacks(384)
A Principle of Diagrams and Tables
今日は以前書いた「図解という名の罠」という記事を英訳してみました。

この記事はお気に入りの記事のひとつだったので訳してみようと思ったのです。

訳してみて感じたのは、翻訳ってけっこう神経使うなぁというものです。

できるだけ原文に忠実に、しかし大胆に、原作者の方の気分を損ねないように気を配りながら訳しました。笑

・・・それはさておき、自分で書いた日本語を自分で英訳するというのは、意外となかなかおもしろい作業でした。

けど、元の記事が長かったせいか、3日ぐらい前から始めて今やっと訳し終わりました。

自分の元の日本語が微妙に変になっている所とか微妙にしゃれた表現を使っている所とかは微妙に訳しづらかったです。

また、英語から日本語にではなく日本語から英語に訳すというのは初めてだったので、自分で訳しながら「英語の構造とか文法はこういう風になっているんだなぁ」というような気付きもありました。

合計で、文字数は約8500個、単語数は約1600語、です。








A Principle of Diagrams and Tables


When we look at the text books all around, we can easily find expressions which say something like "a lot of diagrams and visualized information will make your learning easy and fun".

But, is it really true that visual information like diagrams and tables makes our learning much easy?

Today, I'd like to think about the beliefs pertaining to visual information like diagrams and tables.


Usually, the main way employed by human beings to transmit information is language.

For, by making ideas held in mind into language, one can share the language, and by sharing the language, one can share the ideas held in mind.

Though a language can be transmitted through both letters and sound, letters are used, as is general in publishing, for the literary work.

It can be said that letters are utilized when transmitting information through the abilities of language among people.


Diagrams and tables are on the other side of the letters.

Sharing ideas directly through visualized information held in human mind is a transmission through diagrams, and sharing ideas through orderly information pulled together from ideas in human mind is a transmission through tables.

It can be said that diagrams and tables, which appeal to the vision, transmit information through the abilities of direct perception among people.


Transmitting information through diagrams and tables has dynamism the way through letters doesn't have. And it also seems that the word "Visual" sounds really intriguing to people who believe themselves to be bad at reading literature.


For people to understand the written language, there inevitably comes the internal process of converting letters into ideas after recognizing letters.

On the other hand, to understand diagrams and tables, that internal process isn't needed and people directly recognize ideas.


Converting letters into ideas, when one reads the text, naturally takes time. And the fact that it takes people time to read makes it possible to naturally let the thought dwell on the subject.

And dwelling on a subject is very convenient for understanding the subject; for human mind, when the thought dwells on a subject, naturally finds some significance and order and starts to understand about it, because of the natural tendency of human mind to try to understand what is significant and orderly.

On the other hand, recognizing diagrams and tables doesn't take time.

So diagrams and tables can convey ideas instantly; but to convey ideas instantly also means that one cannot let the thought dwell on the subject either; and without thought dwelling on the subject, one cannot utilize the innate nature of human mind to try to understand things.

As long as ideas are conveyed instantly, diagrams and tables are powerful tools. But in the case ideas didn't get conveyed instantly, diagrams and tables are impotent at making human mind dwell upon the subject and won't encourage natural understanding.

It can be said that the characteristics of diagrams and tables to convey ideas instantly have both a positive side and a negative side.


Language, or logic based on language, is a form of line.

Language and logic are to proceed from the past to the future, and that flow from the past to the future is what conveys ideas.

On the other hand, diagrams and tables are a form of square, represented in the present in the two-dimensional world.

Diagrams and tables have two axes, vertical and horizontal, and visual beauty is what conveys many ideas instantly.


As a nature, logic is good at processing one piece of information at a time, while bad at processing multiple pieces of information simultaneously.

Whereas, vision is good at processing multiple pieces of information at a time, though it cannot produce logic, which has an element of time.


When one wants to understand new information logically, diagrams and tables are much useless; for they don't have a means to present logic in the frame of time flowing from the past to the future.

It's guidance through language that helps when one trys to understand new information logically.

When language presents a new piece of information one by one through a flow of logic, one is able to understand new information easily.

But logic through language has a weakness.

That is, it cannot present much information simultaneously.

So, in order to put together old information that had already been understood logically, diagrams and tables are effective; for diagrams and tables process much information simultaneously, while logic doesn't.

Thinking logically through language can only process a piece of information at a time through a one-dimensional line, thus always tagged along by an element of time.

But diagrams and tables can process much information simultaneously and instantly through a two-dimensional square, thus they can hold information in the present, not being affected by an element of time, which is also good for instant and thorough understanding and memorization.


For the people who have already understood, diagrams, which cover the principle ideas, and tables, which present orderly information, will do the work.

But for the people who are now trying to understand, the fixation of thought on the subject, which is the natural result of the internal language activity initiated by information that flows from the past to the future on the line of logic, is needed.

Professors and teachers who are in a position of writing books and textbooks are always in the position of having already understood; thus, they are liable to be satisfied with only showing diagrams and tables, which can hold much information and thus easy to understand for the people who have already understood logically.

But students, who are now learning, are always in the position of trying to understand; and, thus, they cannot understand easily only with diagrams and tables, which hold much information and thus confuse the people who haven't understood logically before.

Of course, it's not absolutely impossible for students to understand from diagrams and tables: By converting information running both vertically and horizontally into a one-way logic, and by making hard efforts to make the thought dwell on the subject, it becomes possible to logically understand from diagrams and tables.

But, to do so takes a one-way logic to process and analyze massive amount of information, and requests one to force the thought to concentrate on the subject; and also, this requires students to generate energy by himself and is more difficult than to be led with guidance taking advantage of naturally consuming energy, which naturally happens when understanding things.

One who is in a position of writing books and textbooks should seek to present information through a line of logic: Caring about orders, and without making a logical leap, one is demanded to present a new piece of information one by one.

And guidance through language is needed to make the thought of students dwell on the subject, letting the students naturally contemplate and understand.

But, how are the textbooks on the market?

Aren't there a lot of textbooks feeling satisfied with berief sentences only stating the principle ideas, or diagrams and tables, and thinking "I did a good job"?


Visual information like diagrams and tables are not for the people who are trying to learn a new thing; they are for the people who already have the individual pieces of knowledge and want to organize and straight them up.

To acquire a new idea, logical guidance through language is appreciated.

Through time flowing from the past to the future, with language having diverse notions, and the mind thinking logically, incorporating a new piece of information into the current knowledge and putting the pieces together one by one is the easy way to learn, and because of such easiness, it is the way we must take.


Moreover, diagrams and tables cannot tell a variety of ideas in the first place, without even referring to a logic flowing with time.

In most cases, diagrams can only show positions and relations of objects using arrows and likes, and tables can only show crossing points of two objects.

Compared to a wide variety of ideas and logics found in language, diagrams and tables can only tell a very tiny number of ideas and logics.


With that being said, however, when, for instance, one wants to tell visual information, like positions and relations of two objects, diagrams and tables have advantages.

For, due to the visual nature of visual information like positioning, it's better to transmit information through a visual means from the beginning, than to convert visual information into letters and transmit them and, after transmission of letters, convert them to retrieve visual information.

Still, even if it was about positioning, if one seeks to tell a flow of time, or a logical sequence of happenings underlying positioning, then, the matter is another to discuss.

For, in that case, to tell the sequence through language in the frame of time would be a better choice.


What is important about books and text books is if pieces of information are constructed one by one based on a firm and sound logic.

In books and textbooks, diagrams and tables are yet a complementary element, and cannot possibly become the primary element.

For, with only visual information like diagrams and tables, the idea that something flows from the past to the future cannot be represented, and thus logic, which flows from the past to the future, cannot be represented.

And if logic cannot be represented, knowledge, which grows from simple knowledge to intricate knowledge, cannot be represented; and the knowledge being failed to be passed on is the result.


There is no need anywhere for us to be afraid of literature.

Systematic knowledge presented through language with proper logic is simply beautiful and divinely shining.

Sure, it may be true that some not-so-smart writers of books and textbooks can be found in the world; but it would be unwise to label books as "uninvited" judging from those whose logic is paralyzed.

Do not lose your faith until you find a teacher who gives out knowledge with decent logic.

As your search for that single system of beautiful logic ends with joy, the door to the knowledge shall be opened unto you.
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